happychantoのブログ

休職+大学院中退したアラフォー医師

自分の人生を生きたい

他者からの評価を気にして、満足の評価を受け取るために、自分を奮い立たせることを原動力として働いてきた。つまり他人に生かされ、他人の人生を生きてきた。根無し草。だから競争に敗れつまづき、社会から逃げて引きこもった時に、自分が何をしたくてどうやって生きたらよいのかわからない。このような生き方から脱却し、自分の人生を生きたい。そうすれば、悩みは消え、胸をはって前向きになれる。

劣等感

劣等感は、私の苦しみの出発点にあるものの一つだと思う。劣等感の上流あるいは下流に何が存在しているのか、その階層構造の全貌まではまだ私の気づきが及んでいない。私が抱える劣等感は、私が穏やかに暮らすために克服しなくてはならないものだと思う。

劣等感に苦しむのは、比較評価の世界で生きてきた過去に原因がある。かけっこが早ければ褒められる、勉強ができれば褒められる、きょうだいがいればきょうだいと比べられる。親が、親戚が、学校の先生が褒める。他者と比べて優れていることに価値があり、常にマウントを取ろうとする。劣っていれば自信を失う。劣っている自分を受け入れようとしない。褒めて伸ばす育て方はしばしば礼賛されるが、褒めて伸ばす育て方は、人生につまづき挫折するまで背中を押し続ける危うい育て方である。

 

 

自分を許すための繰り返し練習

生活の中で、自分の心が焦ったり動揺したりした場面を、大事に受け止める。ネガティブな意味で心揺さぶられる体験は不快ではあるが、その不快感を全身で味わって、自分に劣等感や負の感情をもたらした原因を探そうとする。体験を積み重ねることで、自己理解を深め、心の防御力に耐性を付けていく。

 

 

職業選択の経緯

私は、何か特定の仕事をしたかったわけではないように思う。私が大学受験の時点で、なぜこの仕事を選んだかというと、ただ、それなりの収入とそれなりの社会的立場を見込めたからだろう。わかりやすく言えば、ただ、何でもいいから、周囲から頭ひとつ飛び出ていて、すごいと思われればよかっただけ。自分の適性や何をしたいかではなく、他者との比較の世界、優劣の視点で行き着いた目標であった。子ども時代に得られる職業を選ぶための情報は多くなかったし、あったとしても例えば親に影響を受けた偏った情報であった。今、この年になってからではあるが、今一度、自分自身の生き直し、育て直しが必要だと思うし、自分がやりたいことや自分の適性を考えている。

自己愛にあふれる人たちがまぶしい

ネットをひらけば、自己愛で充実した人たちの言葉であふれている。彼らは他者に承認されることで、さらに自己への愛を深める。自分を主張する発言は、Twitter、インスタ、FacebookYouTube、Yahooの記事、記事に寄せられるコメントにもみて取れる。どうすれば、そんなに自分を好きになることができて、自己陶酔して、自分の意見を貫けるのかわからない。とはいうものの、振り返れば、私自身もかつては仕事や趣味に打ち込む自分を尊いと思い、他者からの承認を喜び、自己愛を深めていた。あの頃の一途な気持ち、無限の推進力がなつかしい。あの頃の自分がまぶしい。今は、あの頃の自分から距離をおいて、冷めて、どうしたらまたエネルギーを取り戻して笑顔で日々暮らせるか、悩んでいる。

私自身の創造性の無さ・無能さに絶望した

大学院生活が始まって早々に絶望した。創造性のかけらも持ち合わせない私、無能な私に。

指導教員との面談が1〜2週に1回の頻度で行われたが、私の浅はかな研究計画をみて、指導教員が首を縦に振ることはなかった。その理由は、研究内容の意義の乏しさ、面白みのなさ、先行研究についての見識不足などだったろう。

ある研究費獲得のための計画立案の際には、独創的な内容が何一つ頭に浮かんでこず、次第に気力は消耗し、萎えていった。まずは形から努力の姿勢を見せれば、内容は伴ってくると思った。元々のワーカーホリック気質を発揮して、つぎ込める時間をつぎ込み、コンピュータの画面に向かい続けて、力づくで取り組もうとした。しかし、考えるというより悩みこむばかりで出口は見えないばかりでスタートもきれなかった。考えようにも頭の中はごちゃごちゃして考えられなかった。

 

 

ワーカーホリックの臨床医生活

臨床医の業務とは、力を尽くせば一定の満足感を伴う肉体労働であり、終わりのある、たいてい誰にでもつとまる仕事であると思う。私は研修医以来、組織の手足となり、ボロ雑巾のように働いてきた。業務遂行のために、献身的に時間と体力を注ぎ込めば、どんな結末であろうとも一定の満足感が残った。肉体的精神的につらい時であっても、いつか夜が来て朝を迎えるし、目の前の患者は何らかの結末を迎えいなくなる。臨床医の業務は、平凡な医師である私にもつとまってきたようである。

このような献身的な行動の原動力として、他者から見た自分への評価があるようであれば、その原動力はいつか破綻する可能性がある。他者の評価を気にして日々がむしゃらに生きている人は、自分が本当に満足した生を自分で選んで生きていない。他者の人生を生きるだけで、自分としていつまでも自立できない。周囲に対してにこにこし、献身的に、汗水たらして働くことは、それを断ることよりも、実はとても簡単なことである。だから、いやとは言わずに、従い続ける。

そして私のように、いつか破綻する。